今夜ラブ&ポップが

新文芸坐(またか)の「庵野秀明ナイト」に行ってきた。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 EVANGELION:1.01 YOU ARE (NOT) ALONE」「式日」「ラブ&ポップ」の三本立てオールナイトで、事前情報によればこのプログラムは庵野秀明自身による意向であったらしい。当人の当人による編成に向かって悔しいかな、ありがとうございますDJ様と頭を低く低くたれたくなる、すばらしい一夜だった。


ラブ&ポップを初めてみたのはもう十年近く前になる。レンタルビデオでみた感想の詳細はさだかではないが、いい印象でなかったのは確実だ。当時リアルタイムに90年代末を生きていた俺が90年代末の渋谷の風俗を切りとるこの映画の仕事の価値を見出せるわけもないが、去りにし90年代に思いを馳せる今の俺ならCorneliusFANTASMAの看板やカフェに流れるthe pillowsの価値をすくいあげられる。だがまあそれは細部にすぎる。俺が感激したのはそんな細部じゃない。東京で暮らしたことのなかった十年前の俺は東京が鉄道都市だと知らなかったし、だいたいこの映画で三輪明日美は電車に一度しか乗っておらず、なんとタクシー移動などしてしまっている。だからラブ&ポップさんを「そう」呼ぶには少々手札は足らず、しかしDJが配した新エヴァ式日をからめればラブ&ポップは大きく化け、「そう」呼んでしまっても差し支えないほどの確実性をもって今夜スクリーンのうえに現前していた。

今夜、ラブ&ポップは怪獣映画だった。
怪獣のでない怪獣映画だった。

ああもちろん当日の夕方、俺が京橋のフィルムセンターで「大怪獣ガメラ」を見ていたことが無関係なはずはないけれど、庵野監督が特撮マニアであるという予備知識や、あるいはそんな情報などなくても新エヴァにおける巨人と怪獣とのドッグファイト式日におけるRCカーのサーキットの破壊やなんかからめれば、じゅうぶんラブ&ポップは怪獣映画たりえた。ラブ&ポップが怪獣映画になったのはまさにラストもラスト、森本レオが自宅のリビングに広げる鉄道模型をカメラが(=三輪明日美の一人称視点が)とらえたときだった。東京に暮らしている俺は(電車移動をろくにしてくれないこの映画の援護なしに)東京が鉄道都市であると知っているから、カーペットの広さの鉄道模型は、そのまま巨人から見下ろした東京の景色であった。そしてそんな巨視的な風景のどこか一点において、一千万もの匿名の雑踏のなか(そのなかには1997年7月19日に公開された劇場用アニメの観客もいたに違いない)で三輪明日美が指輪一個求めて四苦八苦していたのだと思い知らされた。循環線を見下ろす彼女はゴジラガメラのように(あるいは式日藤谷文子の鬱憤晴らしのように)それを破壊したりはしなかったけれど、怪獣映画がときに帯びる「神の視座」を、今夜ラブ&ポップはまとっていた。絶対的な神の視座と指輪一個に奔走するちっぽけな女子高生の、眩暈のするような両立がそこにはあった。

そして更にラブ&ポップは止まらない。もはや語り草の比類なきカッコよろしすぎるエンドロールまで残りあとわずかであり、高まるボルテージにアタマおかしくなるんじゃないかしらと僕は暗がりのなかにたにたしていた。たとえば三本立てのプログラムが組まれるとしてラブ&ポップしんがりを務めるべきだということは議論を待たない。この映画を見終えたあとでもう一度椅子に座って次の上映を待つだなんて人類には許されない。全編ビデオ撮影によるがさがさした窮屈な画面の110分間の最後の最後、そこだけ35mmで撮影されたまさしく視野のひらけるエンドロールの凄まじい開放感そのままに、闊歩踏んで帰路につくのが正しい夜明けというものだ。ああだから、午前四時半の池袋は朝焼けにくすんで輝くべきだったし、もっというならそこは渋谷であるべきだった。そしたら俺は1997年の夏ではないその渋谷の渋谷川はむりでも道玄坂だかスクランブル交差点だかを、制服にルーズソックスはいた女子高生のごとく練り歩いていったというのに。


参考:http://d.hatena.ne.jp/molmot/20090122#p1
関連:http://d.hatena.ne.jp/cajolery/20080905