THE 4TH KIND フォース・カインド/はやくも
新年一発目に見た映画が、はやくも年間ワーストを奪取したようだ。マジでしょーもなかった。実話だとしたらアブダクション肯定派のみの意見で映画が構成され検証が行われてないのが問題だし、実話というアナウンスが虚偽ならこんなんで騙せるつもりなのか本気で。こんなもん見せといて信じるか信じないかはあなた次第って。ばかじゃないのか。
こんな映画に千円も払ったのが悲しすぎる。やっぱ「アンヴィル」にしとけりゃよかったんだよ。つづけてみた「アバター」が九兆倍おもしろかったからまだ救いがあったものの、危く元旦から大事故に遭うところだった。いや遭ったんだけど。
秒速5センチメートル/セカイ系じゃなくて

これまで新海誠の仕事に感心したことは一度もなくて、一部分もなくて、俺には不要な作家であった。初恋の女の子が忘れられず人生につまずいてしまう青年の話なんてきしょくわるいもの、俺には受け入れる感性がないからね。今作もまったく期待せずに100円レンタルでの視聴だったのだが、一転、とても……とてもよい読書体験だった。平伏して不明を恥じる。俺のアンテナなんか糞くらえさ。
さきに今作の概要を説明しておこう。今作は、ある男女の小学校から成人までのすれ違いを追った物語である。そう、またもや「初恋の女の子が忘れられずに人生につまずいてしまう青年」のお話だ。どうしようもなく個人的なお話だ。だが俺は、今作には、個人だけでなく社会も感じられた。個人と社会とのかかわりを感じられた。今作をセカイ系と呼ぶ向きがあるかどうか俺は知らない。調べる気もおきない。ただ今作に個人と社会のかかわりを感じられたという、俺の数分間の心地よい感動と、その後こんなテキストを書かせてしまうほどの読後感があれば、それで充分だ。
本題に入ろう。そもそも「初恋の女の子が忘れられずに人生につまずいてしまう青年」てのはあまりにも、そのなんだ、こっぱずかしすぎる。ありえねえ。ふだんなに食ってんだ。だけどそういったもはや御伽噺みたいなメンタルのリアリティを、今作は社会とのかかわりによって支えることに成功している。
今作にある社会――90年代からゼロ年代にかけての社会――たとえば作中でながれるいくつかの流行歌や、主人公らが打ち上げを目撃したNASDAの探査ロケット、あれらは実在のものだ。実際の社会がつくりだしたものだ。その一過性の実在したものに、あの時あの場所で、主人公たちも遭遇していたのだというのが、今作のリアリティだ。たとえば高校生の男女の気まずい沈黙を破ることなど、それはまったく探査ロケットの本義ではないけれど、あの打ち上げはそのような余波をも残したのだと、今作はいう。
この感覚が何にいちばん近いかといえば、「むかしの流行歌やニュース映像にふれて当時の気持ちがまざまざと蘇るような感覚」だ。あの曲が流れていたころのわたしがリフレインする感覚だ。なにげないトリガーが、なにかの折に炸裂して、唐突に懐かしさをフラッシュバックさせる感覚だ。成人した主人公は探査ロケットが外宇宙に出た記事を立ち読みして、きっとの打ち上げの日のことをリフレインしたはずだ。そんな距離感、そんな間合いで、今作の個人と社会とはかかわっている。
そしてこの感覚は第三話、ラスト数分に、すさまじい力強さで結実する。決して交わることのない男女は、その想いだけが宙に浮かびながら、いまではもうなにかの折に思い出すだけの存在になってしまった。そして今作は哀しみに暮れる。『いつでも捜しているよ どっかに君の姿を』と。
――という大部分は俺の壮大な「誤読」で、作中に登場するNASDAの探査衛星エリシュは実在しない。実在すればよかったのに、現実社会め。でも意義のある誤読だと思うのだ。別に「社会」を引き合いにださなくとも今作は感動的だと思うが、すくなくとも俺からはこの誤読がなければ感動をひきだせなかった。たぶんそういった読者は皆さんのなかにもきっといるはず。そう信じたい。なお先に練習教材として橋口亮輔「ぐるりのこと。」をみておくとモアベター。こちらは正真正銘、個人と社会のかかわりの映画。
近藤聡乃「うさぎのヨシオ」がおもしろすぎて先行き不安
エンターブレイン刊Fellows!に連載中の「うさぎのヨシオ」がおもしろすぎて、逆に先行き不安だ。同作はマンガ家になりたいうさぎのヨシオが、喫茶店でアルバイトをしながらマンガ家を目指す日常を綴った四コママンガである。
四コママンガではあるが、一応「マンガ家を目指す」「常連客の女性への恋心」という筋があって、ストーリーマンガとしても読めるようになっている。四コマ単位で笑いをとりつつ、毎号ごとかなり明確なテーマに則って描かれている感触があり、Fellows!6号(2009年8月号)の回などは白眉だった。はじめての持ち込みで編集者にきついお叱りを受けなにを描けばいいのかわからなくなったヨシオが、ふたたびビジョンを取り戻すまでの過程を、わずか6ページでみごとに表現している。すばらしい。
だから、憂鬱だ。一進一退するヨシオの日常は、しかし着実に目標の達成に向けて前進している。だが目標の達成はすなわち同作の完結を意味するだろうと、ストーリーマンガとしての強烈な予感が、俺をもんもんとさせる。あれやこれやそれや百の作品のように、筋などなく日常だけの四コママンガだったなら終わりの予感などなかったのに。だけど俺が好きになってしまったマンガには筋があったのだ。この不幸。この幸福。
久々に対フィクションで落胆を味わったので、メモ
オリエンタルラジオのDVD「十」を見て、久々に対フィクションで落胆を覚えたので記念に書いておく。まあおれもいい年なので、自分がどういうジャンルが好きで/興味があって/楽しめるのか、つまりはアンテナの精度にはそれなりの自負があるのだけど、自分のアンテナにこんなにも裏切られたのはここ数年ちょっとなかったぜ、というお話。
Wikipediaによればオリラジがデビューしたのは2005年とのことで、その年の秋にはあまりテレビに馴染みのないおれでも武勇伝ネタを目撃していた。とうぜん第一印象は「アイドル芸人」の一言に尽きる、おれの興味関心の守備範囲からは大きく外れるどうでもいい存在だった。
そんな彼らがおれのアンテナに最初に引っかかったのは翌2006年の初夏ごろで、たしか「いきなり黄金伝説」に出演したのを見たのではなかったか。そのとき中田敦彦が「オレたちの世代的絶望」かなにかを、妙にインテリチックに語り、しかし相方にぞんざいにツッコまれていたのが強く印象に残った。アイドル扱いされている一歳しか年の離れていないこの人は、もしや同類なのではと思った。
その印象が確信に変わったのは、これは時期は忘れたが、よしもと∞ホールでのフリートークの抜粋をニコニコ動画で見たのがスイッチだった。ここで中田は「新世紀エヴァンゲリオン」について熱く語っていて、「学生時代に綾波レイの音声のみを編集したテープを登下校中ずっと聴いていた」なるまことにどうしようもないエピソードを披露し、女性客をドン引きさせていた。ああこいつは90年代に思春期を過ごした、頭はいいのにいろいろこじらせた人間なんだなと、すごく納得した。なので2008年4月の「アメトーーク」エヴァ芸人回などは、親戚の子を見守るような気分で視聴していた。おそらく一部世間的(テレビ的)にも、このころにはオリエンタルラジオをアイドル扱いしない空気が醸成されつつあったように思う(もちろんおれは熱心なテレビ観測者ではないので、正確なところは殊能将之先生にでも聞いてくださいw。)。
前置きが長くなったが、かようにオリラジへの関心を高めていたおれがDVD「十」の存在を知ったのは昨年秋のことで、Perfume目当てに買ったクイックジャパン77号のインタビューがきっかけだった。ここで中田は初DVD作品「十」に対して、「この作品は高校時代の僕に向けて作っているんです。お笑いDVDを探して見続けていたあの頃の僕だったら誉めてくれるかな、と」「ひとりの暴君が作ったDVDですから、これは」などと発言していて、これにはアンテナが強く反応し、機会があれば視聴したいと常々思っていた。
で、本日ようやく見た。
すげえ何にもなかった。
ほんとに何もなかった。
驚きとか、笑いとか、深い思索とか、感心するようなことが何ひとつなかった。
俺のアンテナは俺のために磨かれたアンテナなので、おもしろい/つまらないに関わらず、常に俺のためになるものを見つけてくれるものなのであるが、ここまで期待に反して「何もない」を体験したのは何年ぶりだろうか。メタ観測的にはそれさえも貴重な体験なのダ、というポジティブシンキングでもって、記録に留めておこうと思う。相変わらずオリラジあっちゃんに対する好感度は高度飛行を続けているのだが、たぶんしばらくは彼の作品を見ることはないだろう。
サマーウォーズ/サマーウォーズにこだわりすぎ

新宿バルト9で細田守「サマーウォーズ」を見てきた。制作者のこだわりを感じられる映画であり、そのこだわりが作品としての歪さを生んでいるようにも感じられた。まるで設計者のデザインはゆきとどいているが、実際に暮らすには骨の折れる建築のようだった。総論的な批評をできないシーズンが続いているので、分割して反芻していこうと思う。まあ例によってネタバレだらけ。
- こだわりすぎて歪な点
- 今作のようないってみれば大衆向けエンターテイメントは、なにがしかオオゴトが起きて、それを解決するまでの物語である。今作ではオオゴトをバーチャル空間の崩壊とそれによる現実世界への干渉、解決者を陣内家という30人余りの一族御一同に設定しているわけだが、このコンセプトにこだわりすぎたのではないか。そのこだわりすぎの歪みの最たるものが、オオゴトに対し、一般社会がどう解決を図ったかが一切描写されないことだ。
中盤、お婆ちゃんがその顔の広さや人脈を活かして方々の行政や管理者に発破をかける場面があるが、ふつうのエンターテイメントであれば、ここでは行政や管理者の不手際がまずもって描かれるものと思われる。次いでお婆ちゃんの激励があり、その結果不手際が(まだ中盤なのである程度)善処された旨が描写される、これでワンセットのセオリーであろう。
が、今作はそういう説話を避けるのだよね。セオリーを避けたわけではなく、陣内家以外の描写を避けているようだ。終盤、コトが人工衛星のハッキングにまで至っても、それを解決しようとする一般社会・警察組織・ネットワーク管理者などの動きが描かれることはついになく、異様ですらある
- 今作のようないってみれば大衆向けエンターテイメントは、なにがしかオオゴトが起きて、それを解決するまでの物語である。今作ではオオゴトをバーチャル空間の崩壊とそれによる現実世界への干渉、解決者を陣内家という30人余りの一族御一同に設定しているわけだが、このコンセプトにこだわりすぎたのではないか。そのこだわりすぎの歪みの最たるものが、オオゴトに対し、一般社会がどう解決を図ったかが一切描写されないことだ。
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- たぶん話者によっては「セカイ系」とかのタームを持ち出すのかもしれないが、俺には塵ほどの興味もない話法なので、省く(ことしかできない)
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- ワビスケとナツキ先輩が電話する場面などで、現実世界の人々が地域のお祭りを楽しんでいる様子が描かれており、今作のオオゴトはネットでばかり特に騒がれている事件(我らが形而下にもありがちなことだわね)なのではないか、とすることも可能。しかしこの意識は「オオゴトが起きてそれを解決する話」としては、興を削ぐものでもある
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- そもそもの出発点として、インフラ・行政・職場としてまで機能しているOZの管理キーが、一高校生によって数時間あまりで突破されてしまうことに、なにがしかのフィクショナルな説明が必要なのではないか。もっとも今作的でない解として、ふつうのエンターテイメントなら、主人公の父親がOZの管理に携わっていて〜暗号の一部に主人公の幼年期の思い出が関与していて〜主人公はその特別な利を活かして暗号を解いてしまう、といった説明かなんか、付随するものと思われる。が、今作は今作的でないフォローは採用しない
- 文句なく素晴らしい点
- この手のお話への定番のツッコミとして、なに? コンピュータが超強力なウィルスに感染しただって? なら電源を引っこ抜けばいいじゃないか! というものがあるが、今作ではそれができない。なぜなら、映画が始まってかなり早い段階で、テレビをリモコンで操作するガキどもを止めるために主人公がテレビの電源を引っこ抜くシーンがあるからだ。おなじ解法を二度使ってはいけない、という美学に裏打ちされた今作の「口封じ」を、誰が買わないことなどできるだろう
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- これは女の映画であり、「ファミリー」を描いた傑作という意味で、関連作としてフランシス・F・コッポラ「ゴッドファーザー」を積極的に推したい。あれもまた女たちが前面に出ないながらも存在感を強く示していた映画であり、ふだん碌なもん食ってない闘う男たちが、繰り返されるパーティにおいては手料理を口に運んでいるのが印象的だった。今作の女たちが特に輝くのは、お婆ちゃんが亡くなったあと、葬儀の準備を始めるあたりだ。これはフィクションとしてはほとんど奇跡的な場面で、我々が死人に対して最初にしなければならないのは、弔いや仇討ちなんかではなく、まさにこういった事務仕事なのだ
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- ラブマシーンに雪辱するために男たちが準備に奔走するシークエンス、カズマと師匠が準備体操をするカットで、止めようのない謎の滂沱の涙があふれでた。我が事ながらあまりに理由が不明なので困った
個人的な見解としては、サマーウォーズはサマーウォーズらしさを貫いた映画ではあったが、サマーウォーズらしくない部分へのフォローがばっさりと切られていたのがどうにも気になった。切るでなく、糊塗すればよかろう。もっと正直な感想をいえば、俺がつっかかることなく飲み干せる作品を作りなさいよ! ということなのだが、正直であればよいというわけでもないので、この辺で終いとする。
うーん、そろそろ総論的なテキストが書きたい気分だなあ。
ポレポレ東中野の「松江哲明セレクションオールナイト」に行ってきた

ポレポレ東中野で公開中の松江哲明監督作品「あんにょん由美香」のヒットを記念して、監督当人による編成のオールナイトが上映された。ので、行ってきた。中央線の遅延のせいで10分前に入った劇場は、ほぼ座席が埋まっているというほどの盛況であった。なんとか座れたが、最終的には通路にまで客が溢れる100人強の満員状態。その誰もが濃いお顔というか、男も女も好みの面相がずらり目白押しだったので、休憩時間はじろじろと人の顔ばかりみていた。眼福であった。おそらく業界人と思われる会話や、現地で知人と遭遇したらしいやりとりがそこここで交わされていて、それなりの現場感があった。この人垣にいるだけで金額にみあった充足感がえられる客層であった。
以下、プログラムの順に、あれこれ。
- 松江哲明監督とプロデューサー氏によるトーク
- 質疑応答あり。Q:「あんにょん由美香」のラストは初めから決まっていたのか? A:初期稿は別に存在したが、取材を始めて4〜5ヶ月たって「純子」の脚本が見つかりラストが決まった
- ちなみに初期稿では、通訳の女の子の目線で描いたフェイク・ドキュメンタリー風だったそうな
- 松江監督はドキュメンタリーを撮る際にも、予めラストまでプロットを作っておくという(が、そこに着地するかどうかはまた別)
- 田尻裕司「OLの愛汁 ラブジュース」
- オープニングのスタッフクレジット、椎名林檎「ここでキスして。」が流れどぎもを抜かれる。ソフト化されたバージョンとは大きな差異があるとのふれこみだったが、どうやらこの曲を無断使用していたものらしい
- でも「ここでキスして。」ってエンディング曲だよな(椎名の曲だとシングル版「幸福論」とかもそんな感じ)。冒頭5分で映画が終わった気分にさせられ、おもしろかった
- 概要は、美術大生の青年とそろそろ30の大台が見えてきたOLの、出会いと、自然なすれ違いと、別れが、丁寧に描かれるピンク映画
- 時間の経過を日めくりカレンダーのように演出するデスクワークのカットが、チープな味でおもしろかった。なぜか一回だけアングルが傾くし
- ずっとなにかに似ていると思っていたのだが庵野秀明「ラブ&ポップ」の三輪明日美のモノローグだと気づき、膝を打つ。ラブ&ポップの登場人物の10年後の姿、という読書はどうかと思いついたが、この思いつきにも俺のセンスのなさが端的に現れている。三輪明日美がどう成長しても今作の久保田あづみにはならないだろう。両者は人生の階段の上下に位置するのではなく、三輪明日美が援助交際に勤しんでいた「一方そのころ」久保田あづみは年下男との愛欲に溺れていた、という続柄のはずだ
- という意味でも90年代末らしい、映画(1999年公開作品)。見れてよかった
- 松江哲明氏によれば当時、カラミのシーンで男女が会話をしているのが衝撃的だった、とのこと
- 松江哲明氏によれば氏の林由美香のイメージは、まさにこの映画の役どころと重なるらしい
- 松江哲明「双子でDON」
- どっきり企画もののAV。人はセックスの最中に相手が入れ替わっても気づくものなのか? というテーマを、一卵性双生児の女優2人の協力を得て実験。ラストは監督の言葉を引けば「ドッキリの先」にまで到達している、バラエティともAVとも違う、なにか
- たいへん面白かった。劇場には笑いが耐えなかった
- 一方で、大勢の人間でAVを見るという当夜のシチュエーションに、ひどく背徳的な気分が混ざる瞬間があり、俺によって俺は興醒めした。誤解なきようつけくわえれば、今作はフィルムや監督本人の談話から判断するに非常にアットホームなムードのなかで撮影されており、双子姉妹にも躊躇や罪悪感はないようだった。つまり俺の興醒めは、部外者の倫理観(たぶん近親相姦が俺コードに引っかかったな)がかってに生成したものであり、俺は息をひそめみんなの邪魔にならないようするしかなかった
- まあそんな大袈裟な話でもないんだが、今後の課題として記録に留めておこう
- 工藤義洋「家族ケチャップ」
- 松江哲明監督最新作
- 一応、当夜までシークレットとされていた作品。上映開始直後、機材の不調で音声が途切れ途切れに再生され、会場にライトがともった。皆さん大人なので特に騒がしくなることもなく、頭から再度上映再開
- タイトルは「ライブテープ」。ミュージシャン前野健太が2009年元旦の吉祥寺を歌い歩くゲリラライブを80分1カット一発撮り、という作品
- アレ? これに似たアイデアを過去に聞き知っているぞナンダッケナと帰宅後調べてみたら、監督本人のブログで読んでいた(http://d.hatena.ne.jp/matsue/20090101)というオチ。俺に忘れられない記憶はないんだぜー
- 正直、このアイデアだけで一本の映画が成り立つという監督の確信に、たじろぐ
- これは「あんにょん由美香」のときにも思ったのだが、ドキュメンタリーをつくろうという出発点の初期衝動において、撮影者と俺とはおなじ椅子に座っていない感覚が強い。「あんにょん由美香」に至っては俺はミステリ的な読み方をしていて、「なぜ撮影者は『東京の人妻 純子』に注目したか」「なぜ撮影者は林由美香のキャリアと『東京の人妻 純子』を結びつけるのか」を意図的にオミットしているような印象を覚え、いつか明かされるホワイダニットとして読んでいた。「すでにいない誰かを追憶するミステリ」というのは大好きな恩田陸を連想させもしたしね
- 今作でいえば、元旦の吉祥寺サンロードの森閑の価値や、前野健太の歌と監督の近況なんかは、かなり個人的なものだと思う
- が、両作品がすばらしいのは、俺が不在を感じている映画がその着地点において、かなり強度の高い普遍性でもって遠方の俺をも巻きこんでしまう点だ。たぶんその普遍性はたまたま撮りえたものなんかではなく、偶発とテクニックと確信のたまものなのではないかと、思う
上映後、拍手が巻き起こり、監督がそれに応えた、というか応えられていなかった。俺はどちらかといえば今夜の編成や貴重なフィルムに拍手を捧げた。帰り際、「ライブテープ」のプレスを頂いた。午前5時過ぎの駅のホームにはプレスを手にした観客がぽつぽつと、共同体験のあとのへんな距離感と連帯感で、電車を待っていた。
