MOTHER3のこと

作品のタイトルは「MOTHER3」。
マザーシリーズの三作目にあたる。

パジャマのまま家から出ることを許さないお母さん。行き止まりと、着替えるという解法。ぼくはゲームを遊んでいる。ゲームを主張しながら、優しくぼくを見守ってくれるお母さん。
ゲームの舞台、その世界、島、村。タツマイリ村には村人Aはいない。BもCもDもいない。いるのはナナやブッチやプッシャーやニコルやドナ、名前があり、互いを名前で呼び合う人々、そして彼らの暮らし。


暮らしは破られる。悲劇の中心はフリント一家、我が家、我がお母さん。ゲーム中、ぼくにはずっとあるはずだった未来が見えていた。兄弟が仲睦まじく遊び、犬は駆け、夕暮れにはお母さんがまつ我が家に帰るはずだった毎日が見えていた。このゲームは、じつに帰宅を失敗させられることから始まるのだ。
悲劇には、立ち向かわなければならない。第三者の集結を描きながら、物語は三年後に飛ぶ。

マザー。
その独自性、集客力、魅力、「マザーといえば」につづく賛辞は、そのムードだった。ポップなカラーリングのキャラクター。アオアオとした芝生とマンホールのある舗装路、バスストップ、ライブハウス、ペンキを塗りたくったテラスつき一軒家。ショップにはハンバーガーやポテトやコーラが並び、セーブをするときは公衆電話から。ファンタジーばかりのRPGにおいて、そんなムードが、ぼくを(ぼくらを)ときめかせた。
タツマイリ村の北にあるオソヘ城を訪れたとき、ぼくはMOTHER3を信用するか迷った。その物件は中世風の古城で、まるで他のゲームから移築してきたかのようで、マザーのムードをぶち壊しにするものだった。オソヘ城だけじゃない、MOTHER3の随所には、マザーらしくない違和感があふれていた。

このゲームのラスボスはポーキーという。MOTHER2で主人公の隣の家に住んでいた、デブで嫌味で卑怯者の、あのポーキーだ。彼が森を焼きフリント一家に惨禍を与え、そしてタツマイリ村にも手を入れた。物語は三年後に飛んだ。村にはアスファルトが流され老人ホームが建った。店には消費アイテムがずらり並ぶようになり、というかそもそも、通貨による売買システムが初めてスタートした。話しかけたNPCは匿名だ。村の長老は死に、いまは町長が実権を握っているそうだ。
ぼくは知っている。
これがマザーだ。
ゲームはようやっとマザーのムードになった。
悲劇を経た世界として。

マザー以前のあの長閑なタツマイリ村を、MOTHER3は、「こどものころに あこがれた そぼくで へいわな むら」と表現した。お母さんや兄弟とすごした思い出は、実は「みんなで かんがえた りそうてきな」つくりものなのだと、MOTHER3はいう。
そんなタツマイリ村はマザーとなってしまったが、ではマザーはどうなってしまうのか。
ポーキーのお膝元、ニューポークシティ。マザーの更に先の世界はけんけんがくがくのはりぼての鉄のでたらめの、そういった世界。


まず島があった、入植者たちが夢のような村をつくった、ポーキーは彼自身の思い出のために村をマザーにかえた、その先にはでったらめな世界が待っている。なにもかも、なにもかもが平らかだ。七本の針をぬくなんていかにもRPGめいた展開に辟易するぼくこそが、ぜったいあんぜんカプセルのなかであかんべをしていたのかもしれない。マザーのムードが大好きだったぼくこそが、お母さんを殺し兄からこころを奪いお父さんの人生を壊し、家族を終わらせたのかもしれない。MOTHER3を大好きでしかたない誰かがフリント一家のドアノブを捻るたびに、彼らに悲劇を招いているのかもしれない。
あるいは違うのかもしれない。
あるいはそうなのかもしれない。

作品のタイトルは「MOTHER3」。
マザーシリーズは以後、つくられていない。