マカロニをクリエイトする

cajolery2008-10-29

いまさらながらクイック・ジャパンVol.77のPerfume特集「それぞれの、新しい『ゲーム』」を読んだ。すばらしい記事だった。メンバー三人に個別インタビューを行っているのにも関わらず、三人ともテレパシーで繋がっているようにベクトルの重なった回答をしている。美しいものたちが、足並みを揃えているという、美しさ。安心と憧憬と感謝の念を彼女たちに抱かざるをえない。


ところで本題。のっちのインタビューに以下のような記述がある。「マカロニ」のPV(http://jp.youtube.com/watch?v=-pO6Rq2a4qE)に関する問答だ。

ほんとアイドルのイメージ・ビデオに近いですね。八ミリカメラを回して散歩したり、河原でダッシュしたりしてるんですけど、カメラが彼氏という設定で、自分の女の子としての素の部分を見られている感じでした。
(P66より。太字筆者)

よーしわかった、お前らがわかってないってことがわかった。マカロニのPVはカメラを彼氏と設定しないほうがより潤うってことを俺が教えてやる。僕がいちばんマカロニのPVをうまく使えるんだ。


まずマカロニのおさらいだ。ここではマカロニを「ゆるい恋愛状態にありつつも、それが永遠でないことを悟っているような歌」とする。

これくらいのかんじで いつまでもいたいよね
どれくらいの時間を 寄り添って過ごせるの?

をフィーチャーするというわけだ。

そしてそれに乗っかる映像が、カメラ1に対して女の子1の、三人個々の散策の風景だ。二度目になるが、現在進行形の恋愛の歌だ。つまりここでカメラを彼氏と設定しないことにより、歌が願った「これくらいのかんじで いつまでもいたいよね」が、叶わなかったのだと理解することができる。そう、願いは叶わなかった。ではこれは悲劇のフィルムであるのか? 女の子ひとりぼっちの画面は孤独を意味しているのか?

違うそうじゃない。女の子はひとりぼっちじゃない。マカロニのラストシーンは、別行動をとっていた三人が河原で落ち合って、まるでメリーゴーラウンドのように多幸感をばらまきながらじゃれあうシークエンスなのだ。偽造したストーリーが、ただでさえ耽美なラストシーンの強度をさらに鍛造する。俺が悲劇にしたマカロニは一瞬にして転覆し友情の歌となり、これまさしく三人のベクトルが重なっているPerfumeの美しさそのものである。


なんていう。